どうも、サッキー(@sakky_tokyo)です。
僕はありがたいことに、作曲家の末席を汚させていただいているのですが、昔はバンド仲間どうしで「お前の曲はいつもおんなじでおもんない。もっと色んな曲をインプットしてバラエティを増やせ」とか、「もっと曲作るペース早めろや。いつもスタジオで同じ曲ばっか練習させられてこちとら飽き飽きしてるんだよ」とか愛のある罵倒を言い合っていました。
ああ、懐かしい笑
音楽ではインプットとアウトプットが大切です。
聴いてきた音楽が「自分の音楽」を創りだします。
最近も所属事務所のマネージャーさんや先輩作家ともこの話題になりました。
でもこれは音楽に限らず、色々な物事に言えることだと思います。
特にビジネスパーソンの間ではよく話題になっているようです。
僕はサラリーマンじゃないのでその辺は詳しくはないですが、昔バイトしていたとき、その会社の社員が話していたのをよく聞かされていました。
バイトにインプットとアウトプットの話をしてどうするんでしょうね。
巷でも一時期、「インプットとアウトプットのどっちが大切なの?」のような論争が起こっていましたよね。
今回は「インプットとアウトプット論争」に自分なりの答えを出してみたいと思います。
インプットとアウトプット論争
昔はよく「アウトプットがあって初めて成果が得られるんだからアウトプットのほうが大切だ」とか「インプットなしではアウトプットはできないからインプットのほうが大切だ」とかやいのやいの言っていた記憶があります。
更に話は派生して、最近では「どっちも大切だだけど一番重要なのはバランスだよ!」「じゃあどういうバランスでやっていけばいいの!?」みたいなところを発端として、所謂「インプットとアウトプットのバランス論争」も起きていました。
そこでは、「社会人はアウトプットがあって初めて成果が出せる。結果を求めるなら『インプット:アウトプット』が『3:7』ぐらいが一番いい」という意見があったり、
「いやいや、アウトプットはインプットがあってはじめて成り立つもの。『3:2』くらいがちょうどいい」といった意見もあります。
これ以外にも「インプット・アウトプットの質」の論争や、アウトプットして得られた成果である「アウトカム」の論争などもよく目にしました。
「結果に直結するアウトプット」と「アウトプットを導くためのインプット」という対立構造は非常にわかりやすく、色んな人が実践しやすいため、話題になるのもわかります。
しかしながらこの論争にはある視点がいつも欠けている気がしておりました。
一番大事なのはその中間じゃない?
僕が「インプットとアウトプット論争」において欠けていると思った視点は「インプットとアウトプットの中間」です。
確かにインプットもアウトプットも大切です。
しかしながら、その「中間」、言うならば「思考」や「反芻」というものが一番大事なのではないでしょうか。
インプットからアウトプットが一直線であった場合、そのアウトプットには何の意味があるのでしょうか?
そこにはただ、「右から来たものを左に受け流す」よろしく(ちょっと古いですか?笑)、「世の中に既に存在するものを再生産した」という事実が残るだけです。
アウトプットに「自分」という付加価値をつけ、成果である「アウトカム」を得るためには、ただインプットしたものをアウトプットするのでは不十分です。
「自分なりのアウトプット」をするためには「思考」のプロセスが何よりも大事だと思います。
この「思考」というのは、「インプットを理解するための思考」ではなく、「インプットしたものを自分のなりのアウトプットをするための思考」です。
インプットしたものが、「何故そうなっているのか、他のものにこれを応用するためにはどうすればいいのか」というメタな視点で物事を考えることで初めて、「自分ならこうする!」という自分なりのアウトプットができるようになります。
これにはインプットしたものを一見全く別ジャンルのものにも応用できるという利点もあります。
先日の”お笑いの「緊張の緩和理論」は音楽にも使える理論 “では、「お笑い」で使われている理論が「音楽」という全く別ジャンルで使えるということを書かせて頂きましたが、これもインプットしたものを自分なりに解釈した結果です。
このように「インプットとアウトプットの中間」を意識することは様々なメリットがあります。
まとめ
時間がない人にとっては「思考」というのは非常に時間がかかるため、なかなか十分にできないことが多いと思います。
ですが、少しでも考えてみることで更に良い結果をもたらしてくれることは間違いありません。
がむしゃらにアウトプットするのではなく、一瞬立ち止まって考えてみる、程度でも良いので実践してみてはいかがでしょうか。
ではまた会いましょう、サッキー(@sakky_tokyo)でした!