「うつ」を患っていたときに得た4つの人生に関する教訓

私は以前、自殺をしようと思った時期があります。

最近部屋の掃除をしていたら丁度その時期にあたる日記が出てきて来たので読んでみました。

 

その頃によく考えていたのは死にたいというよりも寧ろ、「生きなければならない意味が分からない」ということでした。

自分が誰かの役に立っている実感がなく、それなら生きる意味がないのでは、と。

 

当時は気付かなかったのですが、思うに私はうつ病を患っていたんだと思います。

 

しかしながら私は色々と一人でもがき考えることで、うつ病から抜け出すことができました。

 

その時に考えていたことは今でも人生の教訓になっているので、そのことについて今回は書いてみたいと思います。

 

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別に誰かの役に立たなくても良い

人間は社会的生き物という側面はありますが、必ずしも社会の役に立つ必要はありません。

学校教育では「社会の役に立つ人間になりましょう」と教えられますが、そんなものはマヤカシです。あれは遠回しに「私の老後の面倒を見ろ」と言っているに過ぎませんから。そんなものは税金をほんの少しばかり払うだけで充分でしょう。

 

別に誰かの役に立ってはいけないということではありません。誰かの役に立つことが幸せなら勝手に誰かの役に立てばいいと思います。

しかしながら、誰かの役に立たないものには価値が無いと考えるあまり、誰の役にも立てない自分は死ぬべきだと考えるくらいなら、役に立つことを放棄すべきだと思うのです。

 

第一、役に立つか立たないかなんてのは人によって判断基準が違いますよね。

家を建てるためににホイップクリームは必要ありませんが、ケーキを作る時にはホイップクリームは役に立ちます。

役に立つか立たないかは気にしなくていいのです。

 

他人に迷惑をかけてもいい

「他人に迷惑をかけるな」なんてことは生きているうちに数百回、いや数千回と聞くかもしれませんががそんなことを気にする必要はありません。

そういう言葉を口にする人は大抵「私に迷惑をかけるな」と言っているだけです。

そんなことを気にして自殺する必要はありません。

人間というのは生きているだけで誰かに迷惑をかけています。子どもの頃には親に迷惑をかけ、社会に出れば上司に迷惑をかけることもあるでしょう。

肝心なのは「迷惑をかけてもいいが、他人の迷惑を許してやる」ということではないでしょうか。

人は迷惑をかけることで寛容になれるのだと思います。

 

「生きなければならない理由」も「死ななければならない理由」もない

冒頭で自殺を考えたことを告白しましたが、何故今でも生きているかというと、「死ななければならない理由」も見つからなかったからです。

 

私は生きなければならない絶対的な理由を探していましたが、最後まで見つかりませんでした。それもそのはずで、「絶対的なもの」というのは恐らくないでしょうし、あったとしても人間には理解することが非常に難しいからです。

それと逆に、私は「死ななければならない絶対的な理由」も無いことに気付きました。

だったら、どうせ後々死ぬことは変わりないのだから命が尽きるまで生きてやろうと半ば自暴自棄になって今に至っています。

今でも生きる意味なんて分かりませんが、私は生き延びることで様々なことを経験できました。

今では生きていてよかったとさえ思っています。

 

自分自身でアイデンティティを確立できる人間は強い

当時の私は承認欲求の塊でした。

承認欲求が強い人っていうのは大抵の場合、自己肯定感が低いのではないでしょうか。

自分で自分を肯定できないから、他者に承認してもらいたんだと思います。少なくとも私はそうでした。

これは言い換えれば、アイデンティティを他人に求めることで自我を保とうとしている状態です。

 

これとは逆に、自己肯定感が高い人というのは、自分で自分の存在を無条件で肯定できるため、他人の承認を必要としません。

こうなってしまえば、自分の幸福基準を自分で作ることができます。

 

これに気付いてから私は出来るだけ自分を無条件に肯定するようにしています。

 

おわりに

いかがでしたでしょうか。

うつ病というのは今考えると辛いものでしたが、それを経験したことで今の自分があります。

この記事が皆さまの人生を考えるきっかけになれば幸いです。

それではまた会いましょう、サッキーでした。

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